幕末トラベラーズ

江戸の史跡

江戸城
(えどじょう)

千代田区千代田町1

江戸城は、慶長8年(1603年)徳川家康が征夷大将軍に任じられた後、260年あまりにわたって日本を実効支配した江戸幕府の中心地だった。

しかし、嘉永6年(1853年)のペリー来航より幕勢は弱まる一方となり、朝廷を奉じた薩摩長州を中心とする新政府軍に追い詰められた徳川家旧幕府は、慶応4年(1868年)4月に江戸城を開城。ここに徳川幕府は名実共に滅び、源頼朝以来の武家政権が幕を閉じた。

江戸城

江戸城は、長禄元年(1457年)に、扇谷上杉家(おうぎがやつうえすぎけ)家臣の太田道灌(おおたどうかん)が、江戸氏という中世土豪の館跡に、新しい城を築いたのが始まりである。その後、戦国時代は小田原北条氏の支城となり、さらに天正18年(1590年)、北条氏滅亡にともなって徳川家康が入府し、江戸幕府を開いた後に、各大名を動員して壮大な近世城郭の建設がはじまった。

本丸には天守閣や本丸御殿があった(現在の皇居新宮殿は西の丸の跡にある)。天守閣は明暦3年(1657年)の大火で焼失し、以降再建されなかった。本丸御殿は、幕政の諸機関が集まる「表(おもて)」、将軍の居所である「中奥(なかおく)」、将軍の私邸ともいえる「奥(おく)(大奥)」に分かれていた。本丸御殿も、幕末期の文久3年(1863年)に焼失したまま明治維新をむかえた。

大名諸侯が登城する場合、通常は大手門か桔梗門(内桜田門)のどちらかを使った。大手門の場合、本丸御殿までには、大手門、下乗門(三之門)、中之門、書院門(中雀門)と、4つの門を通過しなければならなかった。

幕末にいたり、薩長を中心とする新政府軍は江戸城総攻撃の準備を着々と進めていたが、慶応4年(1868年)3月の、西郷・勝の会談で、徳川家降伏に関する諸事項が話し合われ、翌4月11日、徳川慶喜が謹慎中の寛永寺から水戸へ退去し、江戸城の無血開城が実現した。

PHOTO

(江戸城大手門。大手門は外側の高麗門(こうらいもん)と内側の渡櫓門(わたりやぐらもん)

(大手門(高麗門)を入ったところ)

(中之門と大番所。大名らは大手門を入ると三の門の外で乗り物を降り、百人番所の検問を受けた。さらに本丸までは中之門と書院門を通過しなければならなかった)

(天守台跡。江戸城天守閣は慶長12年(1607年)に完成し、寛永15年(1638年)徳川家光が地上58メートルに及ぶ国内最大の天守閣を築いた(現在のビル1階分を3.5メートルとすると、約16階建てに相当する)。しかし明暦3年(1657年)に明暦の大火により全焼し、以降は再建されなかった)

(天守台から見た本丸御殿の跡)

(本丸の説明板の一部)

(浅野内匠頭の刃傷沙汰があった「松の廊下」跡の碑)

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