彦根城(井伊大老銅像)
(ひこねじょう(いいたいろうどうぞう))
幕末期の安政5年(1858年)に幕府大老となり、アメリカとの間に日米修好通商条約を結んだ井伊直弼
彦根城では、天守閣と櫓2棟が国宝に指定されている。
徳川四天王のひとり井伊直政
井伊直弼は、文化12年(1815年)10月29日、第13代藩主・井伊直中
本来であるならば、無名の武士としてその棲処の名のごとく世に埋もれてしまうところだが、直弼32歳のときに、藩主・直亮の養嗣子となっていた直亮の弟が死去したため、かれは新たな直亮の世子(跡継ぎ)に指名され、急遽江戸にのぼることとなった。ところが嘉永3年(1850年)に直亮も亡くなってしまう。
かくして直弼は2人の兄の死によって、彦根藩藩主の座についたのだった。結果的に、養子にもいかず書生のまま過ごしていたことが思いもよらない出世に結びついたといえる。そして井伊家は徳川将軍家の譜代筆頭の家柄であるから、直弼はすぐに幕政の中心的な位置に座すことになった。
井伊直弼といえば、朝廷の勅許を得ることなく日米修好通商条約に調印をした人物であり、開国派として知られるが、本来は鎖国という祖法を守りつづけることを本願としていた。だが直弼は、時代がもはや鎖国を許さないことも理解していた。
老中・堀田正睦
直弼はできるだけ朝廷の勅許を得た上で条約調印を行いたいと考えていたが、6月にハリスが軍艦で神奈川沖まで出てきて即時の調印を求めると、下田奉行・井上清直
一方、条約の無断調印に激怒した朝廷は、幕府を非難し今後の政治方針への要求を記した文書を幕府のほか、先んじて水戸藩にも下した(戊午の密勅
条約勅許問題と並んで大きな問題となっていたのが、将軍継嗣問題だった。病弱の将軍家定の後継として、水戸家出身の一橋慶喜と紀州家の徳川慶福
条約調印が終わった6日後、大老・井伊直弼は、徳川家定の後継を紀伊家の徳川慶福と決した。
直弼が起こした安政の大獄は、おもに水戸家を中心とした一橋派の人々にその矛先が向けられた。徳川斉昭の水戸家と朝廷とが攘夷の旗をかかげて結びつき、天下に蔓延する幕府批判勢力と糾合して反幕の気運が高まれば、日本全体が二分され大きな禍根となるだろう。幕府大老の直弼としてはこうした事態はいかなる手段を使っても防がねばならなかった。
直弼は、一橋派の首魁・徳川斉昭を永蟄居、一橋慶喜・松平春嶽らを隠居謹慎とし、その他、梅田雲浜や吉田松陰など反幕分子と目された多数の志士らを断罪した。
こうした直弼の弾圧に対して、水戸浪士らが井伊本人を誅殺する陰謀をめぐらし、安政7年3月3日(1860年3月24日)、登城中の井伊直弼の行列を江戸城桜田門外において襲撃。井伊直弼はその場で討ち取られたのだった(桜田門外の変)。
(国宝に指定されている彦根城天守。明治の廃城令で日本各地の城郭が消えていくなかで例外的に破却をまぬがれ、その美しい遺構を現在にのこしている。日本で国宝となっている天守は彦根城のほか、松本城、犬山城、姫路城、松江城(2017年現在))
(金亀児童公園内に立つ井伊大老銅像)
(井伊大老銅像)
(銅像の手前右にある歌人・井伊文子氏の歌碑。文子氏は、1953年から36年間彦根市長を務めた井伊直弼の曾孫・井伊直愛氏の妻。「一身に責負ひまして、立ちましし、大老ありてこそ、開港はなりぬ」)
(左手にある説明板。安政の大獄は後世にも非難の的となったが、彦根にとっては、日本の将来のために一身を賭して尽くし、また地元に善政をしいた偉人である)
(天守閣付近から彦根市街とその背後にある石田三成のかつての居城・佐和山城(跡)方面をのぞむ。彦根藩の祖である井伊直政も関ヶ原の合戦後、佐和山城主となった。彦根城の築城が始まったのは直政の死後である)
(井伊直弼が若き日々をすごした埋木舎)
(埋木舎。見学も可能)
(埋木舎の説明板)
(JR彦根駅前にある井伊直政の像。直政は徳川四天王のひとりとして家康を補佐し彦根藩の祖となった)
